<ジョシシハンの思い出>                              
    小学校の低学年の頃、遠足のおやつを買いに近くのお菓子屋さんに行った
   とき、そこのおやじさんに「あんたはジョシシハンに行っているそうやな」と言わ
   れたが、そのときは意味が分からず、ジョシシハンという言葉だけが耳に残っ
   た。意味が分かったのはずっと後のことであるが、沿革を読んでいると、そのと
   きのことを思い出す。もっとも、50年近く経った今では、女子師範と言われても
   意味が分かる人は少ないのではなかろうか。 

  <在校時の出来事>
   61期生が在校した6年間に学校に関する出来事
     @ プール完成(30.7.2)
        1年生のときにプールが完成したので、6年間水泳を楽しむことができた。
      縦15m、横25mで、深さは小学生の高学年は背が届いた。当時、プール
      がある小学校はまだ少なかったので、非常に鼻が高かったものである。

     A 図書室の開設(33.3.28) 
        3階の廊下をはさんで西側に開設された。6年生のときの教室のすぐ前
      にあった。運動場で遊ぶのが忙しく、時々しか行かなかったが、「家族ロビン
      ソン」、「十五少年漂流記」などの冒険小説をよく借りたものである。司書の
      先生がおられた。
 
     B 楽器倉庫の新設(33.8.31)
        音楽室の奥に楽器倉庫が新設されたが、ほとんど入ったことがないので、
       あまり記憶にない。

     C チャイムの変更
       低学年の頃は授業の開始又は終了の合図は、サイレンかブザーであった。
        しかし、高学年では今でも学校で使っているピンポンパンポンのメロディーに
       変わった。このメロディーは、「みおつくしの鐘」という歌の前奏と同一のもので
       あり、この歌が作られた趣旨から考えて、この前奏がベースとなっていると思う。
       その趣旨とは、昭和30年5月に大阪市役所の屋上に澪(みおつくし)の鐘が
      設置され、児童不良化防止の一環として夜十時に鐘を鳴らして早く家に帰らす
      ことを大阪の婦人連盟が提唱したことを、歌にしたものである。

     D 南遊園の整備
        昇降口(登校、下校時に靴を履き替える所)の南にあったので、こう呼ばれて
       いた。これも高学年の頃であったと思うが、ジャングルジム、砂場などが整備さ
      れた。同時に、寄宿舎の前に遊動運手(はしごを横にしたものを、ポールで中心
      を支え、両方に人がぶらさかって、くるくる回して遊ぶもの)も新設された。
       南遊園にあったもので思い出すのは、百葉箱である。この中にある器具で天
      候を測定するのであるが、担当は、6年3組であった。日替わりで2時間目と3
      時間目の休み時間に測定するが、いろいろな器具が扱えるので楽しかった思
      い出がある。
        もう一つ思い出すのは、石炭倉庫である。南遊園の東端にあり、道に面して
      いた。当時は石炭ストーブで、朝、火を熾すのも、石炭がなくなったとき、倉庫ま
      で取りに行くのも日番の仕事であった。途中でなくなったときは、時間 をかけて、
      大きな石炭を探して底の方まで掘ったものである。倉庫からでたときは、真っ黒
      になっていた。  
     
    E 廊下の真ん中に白線が入る
       中学年の頃、廊下、階段及び踊り場の真ん中に白線が引かれ、右側通行が励
      行された。これは、現在の学校でも行われているらしい。 



     
  大阪教育大学教育学部附属平野小学校沿革   

                 
  

       (この資料は、千歳会会員名簿より転載させていただきました。)